最近、スーパーの棚がガランとしているのを見ると、胸がざわつきます。
お米が品薄になり、野菜は高騰。
いつものスーパーがまるで高級食品店のように感じることもあります。
冷蔵庫に食材が入っていることが、「当たり前じゃない」と気づく瞬間が増えてきました。
ありがたいことに、我が家には実家で作ったお米があります。
父と母が、今も田んぼを守り続けてくれているからです。
子供の頃は田植えが大嫌いでした。
泥だらけの作業着で、友達に「田舎者」と思われるのが恥ずかしくて、都会の生活に憧れてばかりいました。
でも今、こうしてご飯を食べられるのは、実家の田んぼのおかげだと心から思います。
こんなふうに思える日が来るなんて、子供の頃には想像もできませんでした。
父と母は、もう後期高齢者です。
広い田んぼを維持するには、機械が欠かせません。
でも、その機械を買うお金、肥料や農薬、ハウスの維持費……全部を合わせると、毎年赤字だと父は笑って言います。
「先祖から受け継いだ田んぼを、放っておくわけにはいかないから」
その使命感だけで、ふたりは今も汗を流し続けています。
町内を見渡せば、昔はどの家にも田んぼがあったのに、今は誰も作っていません。
赤字になるならやめる、というのも当然の選択です。
でも、その現実が今、日本中で起きています。
作る人が減り、食べる人が増える。
そうなれば、食べ物が足りなくなるのも時間の問題かもしれません。
安さだけを追い求めると、作り手の努力は報われず、大きな企業だけが儲かる世の中になってしまうかもしれません。
だからこそ、どこで何を買うか、誰の手を経てきたのかを考えながら買い物をしたいと思うようになりました。
お米一粒一粒、野菜一つ一つに、誰かの努力と想いが詰まっています。
暑い日も寒い日も、農家さんたちが手をかけて育ててくれたからこそ、私たちの食卓に並ぶのです。
食べ物は、ただお腹を満たすだけのものじゃありません。
作り手の想いも一緒にいただく、そんな気持ちで向き合いたいと思います。
そうすれば、食材を腐らせたり、食べ残したりするのが、申し訳なくてできなくなるはず…。
私たちにできることは、小さなことかもしれません。
たとえば、買い物の前に冷蔵庫を確認して、必要な分だけを買う。
余った野菜でスープや炒め物を作る。
レシピ通りにこだわらず、「あるもので何か作ろう」と柔軟に考える。
そんな小さな積み重ねが、食べ物を大切にする第一歩になるのではと思います。
子供の頃、母がお米を研ぐ姿を見るのが好きでした。
透明な水の中で揃って沈むお米の粒が、キラキラと美しくて――。
今思えば、あの記憶こそが、私の「食べ物への感謝の原点」だったのだと気づきました。
イライラしながら研いだお米と、ありがとうの気持ちで研いだお米。
どっちが美味しいかな?って考えてみると、なんだか答えが見えてきますよね。
食べものって、気持ちも一緒に味わうものだと思うんです。
今の子供たちはスマホに夢中で、私がお米を研いでいても見向きもしません。
でも、生きている限り、食の問題は切り離せないこと。
一緒に料理をしたり、家庭菜園を通じて、
食べ物がどうやってできているのか、作った人がどんな気持ちで育てているのか――
そんなことに想いを巡らせながら、食事をいただけるようになってほしいと願っています。
感謝の心を育てるには、「気づく」ことがいちばん。
食べられることは当たり前じゃないと気づく。
食べものは、私たちと同じ「心を持った人たち」が育ててくれていることに気づく。
その積み重ねが、きっと豊かな人生を育ててくれるはずです。
堅い話になってしまいましたが、子どもの子どもの世代まで、美味しいお米と野菜が食べられますように。
まずは大人の私たちが気づいて行きたいですね。
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