常識的?善良な人間の証?「罪悪感」百害あって一利なしだった

心のモヤモヤを解きほぐすヒント
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先日読んだ本『リアリティ・トランサーフィン』。
その中に、「罪悪感」を感じることで私たちがどんな影響を受けているのか――そんなことが書かれた章がありました。

私たちは、つい当然のように「罪悪感」を抱いてしまいます。
なんとなく、“自分が常識的で善良だからこそ感じているのかな?”と思っていたけれど……

とんでもない!
罪悪感は、百害あって一利なしでした。

人生を必要以上に難しくしないために。
今日は、この「罪悪感」について少し見つめ直してみませんか?


↓ (絶版でした😹図書館で借りてみてください~)

罪悪感とは――
自分が倫理的・道徳的に間違ったことをした、
あるいは「やるべきこと」をしなかったと感じたときに生まれる「嫌悪の感情」。

私たちは、そんなことで?と思うようなことにも罪悪感を抱くように育てられてきたようです。

「もったいない」「贅沢は罪」「お金がない」「人のために生きなさい」「親の面倒は子が見るもの」…。

たしかに、それぞれには一理あります。

けれど、小さい頃からそう刷り込み続けられた結果、身じろぎ一つするだけでも「悪いことをしている」と感じてしまう人がいるのです。

そんなことで?私の感じる「罪悪感」

・甘いものを食べてしまったとき
・平日に遊びに出かけたとき
・家族が働いている時間に友人とランチしているとき
・少し高いものを買ったとき

…そんな時、ふと頭をよぎるあの感情。

「いいんだろうか?」
「悪くないだろうか?」

私は誰に許しを求めているんだろう?

誰が私を「罪人」にした?

本来なら「甘いもの美味しかった♪(喜)」で終わるはずのことを、
「体に悪いのに、またやってしまった」とわざわざ自分を責める。

(喜)で済ませれば、甘いものの影響も最小限だったかもしれないのに。
気分を落とした瞬間、余計な負担が増え、「悪い」と思う気持ちが本当に身体に悪影響を与えることすらあるのです。

少し高いものを買ったときも、
「嬉しい!大切に使っていこう(喜)」で済ませればいいのに、

「こんな高いものを買うなんて…、贅沢。私にはもったいないかも…」

と自分を小さくしてしまう。

その瞬間、「私はそれにふさわしくない人間」とわざわざ自分で自己イメージを下げてしまう。

罪悪感は、言葉を選ばずに言えば「自分を悪人にしていく感情」。

甘いものを食べただけなのに。
少し背伸びした買い物をしただけなのに。

本来なら気分を上げて前向きに過ごせる出来事のはずなのに、
自分を「罪人」にして、わざわざ暗い方へ押しやってしまう。

こんなことが積もりに積もると、心の体力はどんどん削られていき、
やがて――
「私は罰せられて当然の人間だ」「やっぱり私はダメだ」と信じ込んでしまう。

でも、私が罪人?
誰がそんなことを決めたの?

えーっと…自分自身、ですね。

罪悪感は「自作の毒」

罪悪感は、自分で自分にムチを打つようなもの。
しかもクセになる。

自分の中で「正義」と「悪」を戦わせて、脳内で勝手にドラマを作ってしまう。
でもそのドラマの被害者も加害者も、どちらも自分。

そんな特殊プレイ、何のためにしているんでしょうね…(汗)

「私は善良な人間です」と思いたいがために
「罪悪感」を利用しているのかもしれません。

罪悪感をよく考えてみると
そこには「百害あって一利なし」に見えてきました。

「喜び」で終わらせれば、右肩上がり

甘いものを食べられて嬉しい!ありがとうございます。
以上。

気に入ったものを買えました!大切に使います。
以上。

お給料をいただきました!大切に使わせていただきます。
以上。

罪悪感が頭をかすめたら、
「罪悪感は私に毒!」とストップして、

「そうだとしても、嬉しいです。ありがとう。」

と変換してみる。

誰も責めていないし、
誰にも弁解する必要はありません。

罪悪感のない世界は、軽やかで自由です。

罪悪感を手放したら、
人生はもっと“よく味わえる”のかもしれないな、と思い、

私は断捨離リストに――
「罪悪感」を入れたのでした。

大事なことだから、もう一度言います。

誰も責めていないし、
誰にも弁解する必要はないんですよ。

罪悪感は、私たちを「善人」にも「幸せ」にもしません。

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