こんにちは。
中村天風さんがこんなことを言っていました。
右には美しい花園があり、左にはお墓や屍がごろごろ転がっている、というようなとき。
右見てりゃいいものを、多くの人は左ばかり見て「この世は残酷だ」と言う。
私も昔は思っていました。
「そんなこと言ったって、左側の残酷さが気になるじゃん」と。
でも気づいたんです。
この考え方には、深い落とし穴がある、と。
習慣としての「視線」
日頃から、左の墓場ばかり見ていたら
合格しても、達成しても、どんなにうまくいっても。
右側の花園ではなく、左側の墓場ばかりを見てしまう癖がつく。
その癖がついてしまうと、たとえ一兆円を手にしても、世界一になっても、
結局は墓場に視線を向けてしまいます。
癖だから。
合格してもイライラする娘を見て気づいたこと
それは娘を見ていて気づきました。
沢山練習して、合格を掴んだのに、
すぐに、今や明日のイヤなことをかき集めてイライラしている。
私の小さい頃にそっくりで、楽しいことがあっても達成できても、
「でもさ〜」とすぐに不満や怒りにすり替えてしまう。
せっかく右側に花園が広がっているのに、
自分で頭をつかんで左側の墓場を向かせているような感じ。
「念願の目標を達成した今日がイヤな一日なら、
一体どんな日が ”良い日” なんだろう?」と、思わず考えてしまいました。
シェイクスピアも言っていた
シェイクスピアの作品『ハムレット』の台詞です。
世の中には幸も不幸もない。ただ考え方でどうにもなる。
結局、幸も不幸も自分の考え方次第。
私自身も「悪い方に考えてしまう」時期が長くありました。
苦しくて苦しくて、救いを求めて本を読み漁った結果、
「よかったこと」「恵まれていること」を探すとよいと知りました。
これが遅効性の薬のように、よく効きました。
落とし穴にはまってしまったものは仕方がありません。
それなら、意識して右側の花園を見る練習をすればいいんです。
花園を見つける練習 ~なくなったら困るもの~
「良いことなんてないよ!」と思うかもしれません。
確かに、目立った良いことは…私にもないです😅
でも、当たり前のようで、なくなったら困るものはたくさんあると思いませんか?
ごはんが美味しいと思えること
涼しい風が窓から入ってきたこと
布団で眠れること
朝、目覚められたこと
病気で食べられない人にとっては「ごはんが美味しい」は羨ましいこと。
窓を開けられない環境に住む人にとっては、風が入ることは贅沢。
布団のない人だっている。
昨日眠ったまま天に召された人だっている。
「これが無くてもいいのか?」と問いかければ、
身の回りのものがいかにありがたいかに気づけるのではないでしょうか。
墓場の見え方も変わる
そうやって右の花園を見ながら道を歩いていけば、
やがて左の墓場の見え方も変わってきます。
「人生に限りがあることを教えてくれているんだな」
「悔いなく生きよう」
そんなふうに意味を感じられるようになっていったのです。
親の見方は、子の見方を育てる
人生という道の、どこを歩いているかは人それぞれ。
スタートしたばかりの子どもたちは、驚きや戸惑いから、つい左の墓場ばかりに目を向けやすいのかもしれません。
正直、朝から不機嫌な子どものそばにいると、こちらまで気分が沈むこともあります。
でも「これは自分の過去の姿かもしれない」と思えば、見え方が少し変わってくる。
「マイナス思考は悪!」と切り捨てるのではなく、
私自身も若い頃はいろいろあったなぁと思い出しつつ(笑)。
怖い左側もあるけれど、右側の小さな良いことにも気づけるように、
「こんなことがあってよかったね」と、淡々と伝えていく。
それが、今の私にできることなのかなと思っています。
おわりに
毎日いろんなことが起きます。
つい左側の墓場に意識が引っ張られるけれど、
それでも花園を見つめる練習をしていけばいい。
生きてきた年月だけ、考え方のクセは強固ですが、
10悪い方に傾いていた心の針を、たった1だけ良い方に傾ける。
その「1」が「2」になり、「2」が「3」になり…。
少しずつ変えていけます。
1年後、5年後、10年後の自分のために。
考え方ひとつで、毎日はきっと変わります。
コメント