―この世界に怒りを覚えるすべての者へ―
この世界には、「絶対に許されざる行い」が存在する。
命を奪うこと。
大切なものを踏みにじること。
それらに怒りを覚えるのは、人として当然の感情。
だが……感じないか?
“許されざる”の境界線が、日々、細かく、曖昧になりつつあるということを。
なぜ、あの者はあのような振る舞いをするのか?
「常識」や「マナー」という名の魔術で人々を縛る声が増える中、
我の中で、ある疑念が膨らみ始めた。
——その「普通」とは、いったい誰の定義か?

それは、己の中にあるマイルールに過ぎぬのではないか?
我が不快を覚えるとき、そこには「自分にとって都合が悪い」という思考がある。
怒りや悲しみの根源は、すべて己の都合に過ぎぬのだ。
だが、この世界には無数の人間が存在し、
誰もが自分のマイルールを持ち、違う世界線で生きている。
あの者は気にしない。
この者は激怒する。
それは、価値観が統一されていないという現実の証明。
この社会で、マイルールを振りかざせば、摩擦が生まれるのは当然。
怒りが湧けば、我が苦しむ。
悲しみに沈めば、周囲の者も沈む。
やがて誰かが言うだろう。
「なぜあの者は、いつも不機嫌なのか」と。
怒りは、巡り巡って、我自身の心を蝕む呪いとなる。
ある日、我はふと、ひとりの“身勝手な者”を見つめていた。
そして気づいたのだ。
あれは、かつての自分だったのではないか?
未熟な頃、我もまた、数多の失敗を重ね、人に迷惑をかけてきた。
自覚はなくとも、確実に、誰かの心に傷を残してきたのだ。
あの者は、かつての我。
あるいは、これからの我。
今、我は“される側”としてそれを見ている。
だがいつか、再び“する側”になるかもしれぬ。
因果は巡る。
ならば、他者に向けた怒りは、過去も未来も含めた自分への怒りということになる。
それ以来、我は思う。
「自分もまた、かつてそうだったのかもしれぬ」と。
怒りを錬成する術を手放し、
マイルールを解き放ち、
代わりに手にしたのは——優しさという名の力。
腹を立てようが、悲しみに暮れようが、
我がこの手で変えられるのは、自分と、自分の周囲にある世界だけ。
我は願う。
我の近くにいる者が、穏やかであるように。
だからこそ、優しさを持って接したいと思うのだ。
その優しさが、小さくても、誰かに届けばいい。
同じように感じる者が増えればいい。
そして願わくば——
この想いに呼応する魂が、静かに広がっていくなら。
やがてこの世界は、
誰かの優しさに包まれた領域となる。
優しさの連鎖が広がったとき、世界はきっと平和へと近づく。
昔の我なら、
「クッサ」とか「は?平和とか無理だし」と一蹴したかもしれぬ。
だが、我は変わった。
変わることを、恐れなくなった。
そしていま、こうして語る。
この文を読んだ者よ。
我の想いを受け取ってくれて——
感謝する。ありがとう。
我らの魂に、静かな平和が訪れんことを。
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我を強調しすぎた感🤭
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